zakkan 甚佐紅(ざっかん じんざもみ)

日々の雑感を綴ってみたい・・・。

「江戸道」と「山道」

うららかな春到来も間近。
今朝はたぶん-5℃くらい、桜のつぼみもぐっと我慢の日々でしょうか。


桜と申せば、我が家から下ること9kmで、美しい桜で名高い高遠藩の城址公園に着きます。


中学二年の頃、徳川秀忠の庶子「保科正之」という記述を見て、
ん? 秀忠って、お江さん一筋の愛妻家だったんじゃないの?と、どこかで仕入れた生半可の知識から、小さな混乱が沸き起り、
まったく!男の人って結局のところ、だらしないんだ、との怒りの結論を導き出したのでした。


それから60年。
名君として謳われた保科正之公が、5年ほど藩主を勤められた高遠藩内で暮らすことになるなんて。


「参勤交代」で江戸城にお通いになるため、我が家の前の道をお通りになった、と思うと、六尺(ほぼ2メートル)の道幅まで愛おしくなってきます。


徳川家光は、この7歳年下の有能な異母弟をたいそう頼りにして、3万石の高遠藩から会津藩23万石へ転封させ、死の床に呼んで、息子家綱を頼む、とまで言い残したそうです。(Wikipedia)


高遠藩での善政。そして会津では「将軍家の守護」を遺訓とし、末裔である200年後の松平容保は幕府が終焉を迎える中、最後まで将軍を守り続けた、って、まことに心根の据わったお侍様方ですね。
そうそう。将軍から、松平と名乗ってよいぞ、といわれたのに、高遠で幸せなときを過ごした思いから、終生、保科姓で通された、とも、Wikipediaにありました。


三叉路に、立派な石の道標が建っています。


右 山道
左 江戸道


我が家から150mのところにある道標です。


ところで今日3月14日はホワイトデーですが、浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内松の廊下で吉良上野介に切り掛かり、即日、切腹した日でもあります。
いや、実は、講談などで語られる「ときはさんがつじうよっか」は旧暦で、
実際には4月21日のことだったらしいのですが。


4,5歳の頃でしたか、キャパ数100人くらいの田舎の劇場にも、この季節、「刃傷松の廊下」の上演があり、祖母に連れられて行くと、30人くらい、みんなおばあちゃんですけど、内匠頭切腹の場面になると、もう手ぬぐいハンカチ片手においおい泣きながら、ほんまに気の毒にのう、と嘆きあう。
お便所の匂いの強烈に漂う、劣悪なる芝居小屋、でしたけれど、演者と見者の一体感!
桜に見立てた紙吹雪がはらはらと落ちてきて、内匠頭役は「無念じゃ」と絞り出すように言ってお腹を召す。小体な花道の端っこでは、家来の片岡源五右衛門が殿様のご最後を見届け、肩を震わせている。
そりゃあもう、ここに大衆演劇あり、でした。


劇場の役者さんは、揃ってきれいな白足袋でしたが、
保科正之公は、1631年に高遠藩主になられたのだけれど、まさか裸足でいらした?
浅野内匠頭刃傷の1701年には皆様はもう、木綿の足袋をお穿きになっていたのでしょうか?
つい、ささいなことを思ってしまう。
明暦の大火(1655年)を境にして、それこそ燎原の火のごとく、木綿の衣類や寝具が広まった、ということらしいのですが。


それにしても、突然お殿様が亡くなって、赤穂は大騒ぎになった、のは、お城勤めの武士の方々だけで、庶民は「殿さんが変わるだけや。変なお人が来んように祈るで」といったところだったでしょうか。


武士は人口の一割程度。
八割九割の我々下々はついこの間まで、食べるに困らず、温いものを身に着けて嬉し、が暮らしの肝腎でしたもの。


でも、お芝居はいつの時代も,お上に限らず、庶民も楽しんでいました。
なんと、赤穂浪士討ち入りの一週間後には、山村座で演目として架かった、というのですから、江戸の人たちの新し物好きをうかがい知ることができるというものです。
もちろん、すぐにお達しが出て、上演中止になった、ということですが。


いつの日か、芝居の話を書いてみたいと思っています。