zakkan 甚佐紅(ざっかん じんざもみ)

日々の雑感を綴ってみたい・・・。

裸足の平安時代!その弐


昨日始めてブログを書いたのですが、意外にもたくさんの方のお目に触れたようで、うれしくなってまた今日も綴ってしまいます。


裸足の姫君たちのお足元も気になるのですが、450万人の人たちの冬のお召し物はいったいどんなものだったのでしょう?
残念ながら、頼りのWikipediaも答えてはくれません。


全然関係ないかもしれませんが、3年前、移住してきた家はおそらく江戸末期、1840年代に建てられたもののようです。
馬を飼っていた農家で、現在はブリキのトタン屋根ですが、もとは、なんと板瓦だったのです。(北側に軒が張り出していて、そこに間違いなく板瓦が張られています)
板瓦って何?ですよね。
この地区の長老によると、4年ごとに板を張り替えていた、というのですから、村中、いつもどこかの家の屋根がふき替えられていたに違いありません。
神社の屋根を覆っている檜皮(ひわだ)のように消毒作用のある樹皮ではありませんからあっという間に腐ったり、反り返ったりしたのでしょう。


何を申し上げたかったか。
つまりは、奈良時代の頃からつい最近まで1300年くらい、人々の暮らしはそう変わらなかったのです。
スマホは10年もたてば、とんでもない進化を遂げるのに。


人々の衣服の材料も、形は変われどほとんど「絹」と「麻」のみ。楮(こうぞ)という現代のお札に使われる木の皮をなめして、機織りしていたという記述をどこかで目にしたような気もしますが。


というわけで、足袋。
寒い冬、足を保温し保護してくれるありがたいものですが、常日頃、壮麗なる装束をお召しになっている貴族の方々にも行き届くことはありませんでした。
しかし、兵役に就くときや猟に出る折りには、鹿の皮を薄くなめして紐で縛った「下沓(しとうず)」というブーツのようなものをお召しになり、また、それは単皮(たんぴ)とも呼ばれ、やがて足袋、となった語源でしょうか?と、これはWikipediaに載っていました。


そこで、またまた疑問炸裂!!
室町時代から江戸時代にかけて、単皮は男たちの間で大流行。というより、戦には、身を守るもの、また防寒具として必需品であったと考えられます。しかしながら、国内の製品はなめしが下手で、中国からの輸入ものに頼りきり。
そんな中、明暦の大火が起き、皮の羽織(陣羽織のように火消しさんがお召しになったのでしょうか?)や単皮が品薄になって、木綿の足袋が作られるようになった、って書いてありました。


えっ、木綿。
突然の登場です。


そう、木綿。
数年前までの時代劇では、鎌倉時代でも室町桃山時代、みんな木綿の着物をお召しでした。
実はそれは大間違い。衣類としては絹と麻、ほんのちょっとだけ木の皮、しか存在していなかったのですから。


江戸時代中期になって初めて、庶民に木綿が行き渡った。
綿花の栽培、これが女性の足のしもやけを守る大きな幸せをもたらした、と私はひそかに思っています。


799年(事実かどうか定かではありませんが)、木綿が日本に伝来した、とあります。
鳴くよ鶯、平安京(794年)ですから、平安時代の初め、中国からわたってきた綿花。
でも、栽培が上手くいかず途絶えてしまう。そして、戦国時代の終わりごろから改めて栽培に着手し、江戸時代中期以降庶民にいきわたることになった、とあります。
めでたし、めでたし。


でもなぜ、綿の栽培は普及しなかったのでしょう?
う~ん、きっと庶民は食べるだけでせいいっぱいだったのだと思います。
衣食住、というけれど、それは現代の暮らしの条件に過ぎない。
まずは生命を維持するためになんらかの食物を口に入れ、とりあえずのエネルギーを得て、人は何千年を生き抜いてきたのです。


麻という植物はそこら中に生えているのですからせっせと採取し、機織りにかけて衣服とする。
ところが綿の栽培など、それなりに手間のかかる作業で、食料とする米や粟,薭(ひえ)を作るだけで手いっぱいではなかったか。


江戸時代に入ると、安定した日常がもたらされ、綿花の栽培も盛んにおこなわれるようになって、なんでも、米を作るより綿花を作った方が収入になる、という農家に、ある領主は「田んぼで綿花を作ってはならぬ」というお触れを出したとか。年貢が少なくなるのを恐れたのでしょうね。


つい最近まで、農家ならどこの納屋に行っても綿花を紡ぐ糸巻があった、のです。
シルクやリネンは大昔から。コットンに親しんだのはほんの250年くらい前からだったのですね。


長いお話になって申し訳もなく。
また、もやもやを少しづつ綴っていきたい、と思っています。